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外惑星の配置が世界の歴史をつくる

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アンドレ・バルボーは非常に著作物の多いアストロロジャーとして知られています。

 L’Astrologue1968年のもの

バルボー直筆のサイン

時の岐路に立つ

​リン・ベル(Lynn Bell)

​この記事はアンドレ・バルボーと親しかった、パリ在住の著名な占星家リン・ベル(Lynn Bell)氏によって書かれたものです。2018 年に発表され、2019年に亡くなったアンドレ・バルボーを偲んで再掲載されたものを、許諾のうえ紹介しています。

アンドレ・バルボー(Andre Barbault)のマンデン占星学における惑星周期の研究と最初に出会った時のことを覚えています。私はパリのポンピドゥーセンターの図書館の床に座って、彼の著書のひとつである『Les Astres et l'histoire』を熟読し、世界史と土星・海王星サイクルとの相関の驚くべき精度を理解し、衝撃を覚えました。私が感じた興奮と得られた洞察は、私を占星学のまったく新しい次元へと一気に引き上げたのです。このような研究を他で見たことがなく、それは私にとって啓示でした。バルボーは歴史と学問の骨の折れる研究に取り組み、国、政治家、世界の指導者のチャートを研究して、その周期性を明らかにし、大きな全体像を見出しました。
 
1936年、アンドレは兄のアルマンの示唆を受けて、占星学における天体周期の研究を始めました(占星家一家に生まれている)。彼は歴史と伝記を熟読し、すべてを吟味し、マイナーアスペクトとメジャーアスペクトを通じて、長期的な周期性を細かく修正していきました。だから長い年月に渡って、彼の予測には驚くほど先見の明があったのです。たとえばソビエト連邦の崩壊を、それが起こる何年も前に予測していました。

アンドレ・バルボーは現在96歳で、現役を引退しています。彼は1921年10月1日の午後 5時に(ちょうど日食でした)、フランスのシャンピネルで生まれましたが、自分の出生図を午後4時54分21秒に修正しています (チャート参照)。不思議なことに、エクリプスに生まれながらも、月のノードにはほとんど興味を示しませんでした。

彼の新月は、新たな木星・土星コンジャンクションから生まれており(9月10日に起きたコンジャンクションの後、初めての新月)この新しく形成された「ロイヤル」コンジャンクションの効力を備えています。各世代に、木星・土星コンジャンクションに生まれた人たちがいて、そういう人々は次の20年サイクルの刻印を背負っています。それは創造的な衝動、哲学、政治的な権力かもしれません。バルボーの場合、それは占星学の技法を再発明することでした。彼が日食と木星・土星コンジャンクションの両方の力を備えて世に生まれたことは、彼の並外れた影響力の一因であると言えるでしょう。そして天秤サインでコンジャンクションした太陽、月、木星が風の豊饒さをもたらし、バルボーの言葉と思想は彼のペンから流れ出して、およそ50冊の著書に結実しています。

アンドレは、多くの点で完全にウラニアンです。天王星は彼の出生チャートでシングルトンであり、アセンダントから13°離れた1ハウスに位置しています。天王星は、アンドレの聡明さと特異性をさらに高めています。天王星はまた、水星が蠍サイン、冥王星が蟹サインにあることから、水のグランドトラインの一部であり、彼の心に広い視野と着眼点を与えています。1960年代、天王星と冥王星がともにある時、彼のアイデアの多くは書籍化されました。アンドレは非常にモダンで、このサイクルに共鳴するかのように、機能しないとみなしたプライマリー・ディレクションなどの古い伝統的なツールを破棄し、トランジットの使用を推進しました。

彼のマンデン占星学の研究は、ケプラーの研究と同様に天体を重視し、サインにはほとんど注意を払いませんでした。しかし他の領域、個人のチャートの研究では、彼はサインについて綿密に検討しています。Editions du Seuilから刊行された彼の『12星座コレクション』(全12巻)は、1957年の初版以来、版を重ねており、彼を有名にしました。各サインに対する彼の深い心理的洞察と、古典的なイメージの先駆的な使用により、この本は不朽のテキストとなり、新しい版が出るたびに書店の棚の目立つ場所に置かれています。

バルボーはその著書『La Prévision de l'avenir par l'astrologie (Paris: Hachette, 1982)』において、予知技術としてトランジットに重点が置かれたことは、20 世紀の占星学における主要なシフトのひとつだと論じています。「私たちの太陽系は7つから、10個の惑星に成長しました」と彼は指摘します。「これは、占星家(アストロロジャー)が扱うトランジットの組み合わせが17から45になったことを意味します。大宇宙の転換に伴って、伝統と保守主義を混同してはなりません」。

彼はトランジットを「時間のリズムを通して、生物を宇宙に結びつけるもの」と定義しています。

”バルボーは、天体の逆行、プログレッション、ソーラーリターンにはさほど着目しませんでした。これは、 20世紀の最後の四半世紀においてはかなり急進的な立場でした” [リン・ベル氏自身の翻訳より引用]

1984年に、チャールズ・ハーヴェイ、マイケル・ベイジェント、ニック・キャンピオンは、バルボーのアイデアの多くを、彼らの著書である『マンデン占星学(Mundane Astrology: Introduction to the Astrology of Nations and Groups)※1最下段参照』にまとめました。なお英語圏の読者は、リック・ターナスの印象的な著書『宇宙と魂(Cosmos and Psyche: Intimations of a New World View 2006)※2最下段参照』 を読んでください。ターナスは原型の観点から歴史を探索することに重きを置いていますが、バルボーの研究はより詳細かつ細心の注意を払っており、彼の発見を裏付ける証拠を見出すことに注力しています。

1979年、私がパリ郊外の19 区に初めて訪ねた時、アンドレは快く迎えてくれました。彼はすぐに、フォーマルな”vous”から、より親しいフランス語の”tu”に、切り替えたのです。これは平等と友情のしるしです。このウラニアンの心の広さは、彼にとって自然なことでした。また偉大な業績にもかかわらず、アンドレは決して傲慢ではありませんでした。彼は80代になっても、自身を「占星学の学徒」と呼んでいたのです。ウイット、思考と言語の快活さ、純粋なエネルギーはすべて、講演や著作にあらわれています。

彼は数年前に占星学界から引退しましたが、今でも同じ家で妻のジャクリーンと本に囲まれて暮らしています。彼はもはや個人のトランジットには目を向けていませんが、より大きなプラネタリー・サイクルは彼の思考を動かし続けており、2026年に現れる新世界(外惑星が風と火のサインでセクスタイルとトラインを形成する)について楽観的な姿勢を崩していません。

1944年にパリに到着したアンドレは、戦争が終わると、友人たちと非公式な「CIA (le Centre Internationale d'Astrologie 国際占星学センター)」を結成しました。パリで開催された最初の会議は、このグループから生まれました。アンドレの仕事は当時の他の占星家と同様、コンピューターの助けを借りずに作成されていました。今では考えられないことですが、1970年代まで、占星家は19世紀以前の外惑星の位置を知ることができなかったのです。

1966年、アンドレはコンピューター会社のアストロフラッシュから、彼のテキストを使ってコンピュータでレポートを作成するというアイデアを持ちかけられました。引き換えに、彼は過去1000年間の惑星の位置を計算できるかどうか尋ねたのです。このコラボレーションは、この種のものとしては初めてのことで、大成功を収めました。1968年、アストロフラッシュがシャンゼリゼ通りにブティックをオープンすると、人々が殺到し、月平均6,000件のチャートレポートが作成されたのです。これらのレポートは、デザインがシンプルであるにもかかわらず、驚くほどの影響力を持っていました。私のフランス人クライアントの多くが、このコンピュータでプリントアウトしたものをセッションに持参しました。

しかし他のフランス人占星家たちはコンピューター・レポートを嫌い、アンドレは「安売り」として激しく攻撃されました。多くが彼を批判し、彼の家に来て彼の顔を殴ると脅す人さえいたのです。訴訟も始まりました。その結果、アンドレのネイタルの土星に、天王星がトランジットしている間にCIAグループは崩壊しました(天秤サインや7ハウスに天体が多い人にとっては、大変です!)。

この分裂の直後、アンドレは占星学の雑誌 l'Astrologue を創刊し、それは今日まで続いています。彼がこの雑誌のためにインタビューした人々の中には、C.G.ユング、ミルチャ・エリアーデ、クロード・レヴィ=ストロース、アンドレ・ブルトンなど、当時の偉大な知識人、文化人が含まれていました。

1979年にアンドレに会った頃、私はホロスコープに対してユング的でヒューマニスティックなアプローチをしていたので、精神分析と占星学を結び付けた彼の先駆的な仕事にはそれほど敏感ではありませんでした。フロイト的なアプローチには違和感を覚えたし、海王星や冥王星に対する暗い見方には共感できせんでした。だからといって、長年にわたる私たちの心のこもったつながりには何の違いもありません。私は当初、彼のマンデン占星学の研究を英語に翻訳するのを手伝いたいと思っていましたが、それは私の能力を超えた仕事であることが分かりました。

2005年、84歳の誕生日を迎える直前に、アンドレは英国で開催されるAA(英国占星学協会the Astrological Association)のカンファレンスに招待されました。彼は旅行が嫌いうえ、英語が苦手なので、私は本当に実現できるか心配でした。そこでダニエル・ド・ディースバッハが(学生のビデオグラファー)、念のためフィルム制作に協力してくれることになったのです。私たちは3日間かけてアンドレにインタビューし、その映像をダニエルが1時間のビデオに編集してくれました。それは本当にすばらしい経験でした! 

アンドレの知的な天賦の才は冴えており、俊敏でユーモアがあり、しかも相変わらず眼鏡なしで天文暦を読むことができました。結局、彼は背中の痛みでイギリスに行けなくなり、私たちはこのビデオを急いで準備をしました。そしてカンファレンスでは、私が飛び入りして、ビデオを上映しながら同時通訳することになりました。英語圏の聴衆にアンドレを紹介できたことは光栄でしたが、彼が直接登場できなかったことは残念です。

89歳で3度目の土星リターンを迎えたとき、彼は最後の著書『 l'Univers de Saturne』 で土星の主題に戻りました。アンドレ・バルボーの著作は、これまでスペイン語、イタリア語、その他のヨーロッパ言語に翻訳されてきましたが、彼の緻密な文体が英語への翻訳を妨げてきました。しかしながら、AA(英国占星学協会)のケイト・ジョンストン と ロイ・ギレットが、The Value of Astrology (2014) および Planetary Cycles: Mundane Astrology (2016)によって、ついに英訳を実現しています。

最初に会った後、アンドレはフランス占星学カンファレンスの主催者に私の名前を教えました。この紹介のおかげで、私は1981年の初めに他の専門家に占星学についての最初の講演をすることができたのです。
私は彼の明るい精神--輝ける占星学精神--に心から感謝しています。彼は私に天体サイクルの窓を開き、若いアメリカのアストロロジャーをフランスに迎えてくれました。

 

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